企画展「野田宇太郎が歩いた山口」〜国木田独歩資料のご紹介〜 

現在、野田宇太郎文学資料館では、企画展「野田宇太郎が歩いた山口」を開催中です。

前回は主に写真資料を中心に展示内容のご紹介をしましたが、今回は、山口ゆかりの文学者の一人である

国木田独歩の資料についてご紹介します。

国木田独歩(くにきだ どっぽ)(1871〜1908)は、

現在の千葉県銚子市に生まれました。

5歳の時、父の転勤に伴い山口に移り、その後、岩国や萩(広島に

住んでいた時期もありますが)など、山口の各地で暮らしました。

多感な少年時代を山口で過ごした独歩は、中学を退学して

上京した後も、何度か山口に戻って活動しています。

明治24(1891)年には、尊敬する吉田松陰にならい、

田布施(たぶせ)で波野英塾(はのえいじゅく)を開講し、

明治27(1894)年には柳井で印刷業を興す計画を立てます。

結果的にはどちらも上手くいかなかったのですが、吉田松陰への

憧れなど独歩の行動には山口との深い関わりがみてとれます。

野田宇太郎が構成・解説をした

『日本文学アルバム18 國木田獨歩』〔1956年3月 筑摩書房〕です。

野田宇太郎の少年時代の愛読書が独歩の『武蔵野』だったことは

すでにご紹介しましたが、それだけでなく野田は、国木田独歩という

人物に強い関心を抱いていたようです。

『野田宇太郎文学散歩 21上 山陽文学散歩』〔昭和57(1982)年 文一総合出版〕

でも国木田独歩についてかなりのページをさいています。

独歩の作品で最も野田が愛読したものが「武蔵野」「忘れえぬ人々」「少年の悲哀」でした。

「少年の悲哀」は、柳井を舞台とした物語です。

独歩は詩人としては、多くの作品を残してはいませんが、野田は詩人としての独歩を高く評価しており、

"散文でも作者の詩情が沁みこんでいるからだろう"と書いています。

そういった部分が野田をひきつけたのかもしれません。

国木田独歩の

『愛弟通信(あいていつうしん)』〔明治41(1908)年11月  佐久良書房〕

です。

独歩は、桾x蘇峰(とくとみそほう)(1863〜1957)の国民新聞社に

記者として入社し、日清戦争の際、軍艦千代田に搭乗しました。

『国民新聞』で連載された「愛弟通信」は、艦上から、国民新聞社勤務の

弟収二に宛てて戦況を報告するという形式で書かれており、そのスタイルの

斬新さが話題を呼び、独歩の名前は一躍有名になりました。

この『愛弟通信』は独歩の死後、出版されました。

こちらは、

澤田忠次郎編『獄中之告白(ごくちゅうのこくはく)』〔明治39(1906)年9月 独歩社〕

という本です。

独歩設立の独歩社から出版されました。

この本は、明治時代の猟奇殺人の中でも、衝撃的事件とされる

「臀肉(でんにく)切取事件」の被告、野口男三郎(のぐちおさぶろう)

手記です。

独歩は、近事画報社の負債を雑誌の出版権とともに抱えてしまったため、

明治39(1906)年の独歩社の発足直後から独歩は金策に追われることに

なります。

雑誌の売れ行きも良くなかったため、売れそうな本を求めた結果、

この異色の本が出版されることになりました。

『近事画報(きんじがほう)』での派手な広告、猟奇事件の容疑者という

話題性によってある程度は売れたようなのですが、独歩社の延命の

助けにはなるほどではありませんでした。

国木田独歩『欺(あざむ)かざるの記 前篇 後篇』

〔前篇 明治41(1908)年10月 佐久良書房 後篇 明治42(1909)年1月 隆文館〕

です。

小説ではなく、独歩の日記で、明治26(1893)年、22歳の時から

数年間書いたものです。

こちらも、独歩の死後に出版されました。

こちらは、展示室の独歩のコーナーです。

展示パネルでは、独歩の略歴と、独歩の作品の

「置土産(おきみやげ)」の一部分をご紹介しています。

「置土産」の展示パネルの背景には、野田宇太郎が撮影した、

「置土産」の舞台となったお店の昭和41年の写真を使っています。

今回ご紹介した本以外にも、多くの本やパネルで独歩と山口、野田宇太郎との関わりを示す資料を展示しています。

次回は、山口出身の文学者、中原中也(なかはらちゅうや)と嘉村礒多(かむらいそた)について展示品をご紹介します。

皆様のご来館を心よりお待ちしております。