企画展「野田宇太郎が歩いた山口」

〜中原中也・嘉村礒多資料のご紹介〜 

野田宇太郎文学資料館では、企画展「野田宇太郎が歩いた山口」も残すところ、あと一ヶ月あまりとなりました。

今回は、中原中也・嘉村礒多の資料についてご紹介します。

こちらは、詩人・中原中也(なかはら ちゅうや)のコーナーです。

中原中也(1907〜1937)は、現在の山口市湯田温泉の出身です。

生家は医院を経営している旧家でした。

中也は待望の長男で、子どもの頃は神童と呼ばれるほどだったと言います。

野田宇太郎が撮影した中原中也生家です(昭和40年代)。

裏手が母屋だったとのことなので、こちらは、医院の入口だと思われます。

野田が訪れた時は、中也の弟・思嘯ウんの家族と

中也の母・eさんが住んでいたそうです。

こちらは、

中原中也の詩集『山羊の歌』〔昭和9(1934)年12月 文圃堂〕です。

(展示しているのは復刻版です)

装幀は詩人で彫刻家でもある高村光太郎(1883〜1956)です。

校正を七校くらいまで行い、用紙や活字などすべてにこだわったもので、

中也は、この本の印刷費用を母からの援助でまかないました。

しかし、製本と出版の引き受け手が見つからず、文圃堂から

出版されたのは、本文が印刷されてから2年後のことでした。

野田が中原中也をどのように捉えていたのか、それは

『野田宇太郎文学散歩 21上 山陽文学散歩』〔昭和57(1982)年 文一総合出版〕

を読む限りでは、あまりはっきりと分かりません。

野田が、昭和41年(1966)に中原家を訪れた際には、中也の母・eさんは留守であったと書いています。

しかし、当館には、野田がeさんと談笑している姿が写っている写真が残されており(こちらも展示中です)、

いつかははっきりとしませんが、その後、もう一度野田が中原家を訪問していることが分かります。

また、野田は、昭和40(1965)年に建てられた中原中也の詩碑の建設費に寄付をしており、

除幕後送られてきた写真の中に中也の母・eさんの姿があったことに『山陽文学散歩』の中で触れています。

このようなことから、どちらかと言えば、詩人としての中也に注目したというより、その人生そのものと、

そして、中也を形作った人々や風土に興味を抱いていたのかもしれません。

一方こちらは、嘉村礒多(かむら いそた)のコーナーです。

嘉村礒多(1897〜1933)は、以前にも簡単にご紹介しましたが、

現在の山口市仁保出身の作家です。

礒多も中也と同じく長男で、生家は地主という比較的恵まれた

環境に育ちました。

『途上』〔昭和7(1932)年8月 江川書房〕です。

題字は嘉村礒多本人が書いたもので、几帳面な字からその性格が

うかがえるようです。

野田は、この本を買ってきたとき、むさぼるように読んだ、と書いています。

そして、その文章に感銘を受けたようです。

こちらも野田宇太郎が撮影した、嘉村礒多生家の写真です。

昭和41年頃のものと思われます。

中央の石垣の上にあるのが礒多の生家です。

『山陽文学散歩』に、野田は、

"「崖の下」という佳作を書いた礒多は、こんな山国の小さい城のような

「崖の上」の家に育っていたのかと思うと、ちょっとおかしい気持になった"

と書いています。

嘉村礒多の作品は、ほとんどが作者の体験を反映した私小説です。

作品の中に出て来る主人公の故郷の風景は、そのまま礒多の故郷の風景でもあります。

野田は、この礒多の故郷を訪れた際、作品に表現された風景と同じ場所を見つけて、とても感動したようです。

その日は、雨だったにも関わらず、野田は、この礒多の故郷の仁保で、かなり多くの写真を撮影しています。

「野田宇太郎が歩いた山口」は、5月10日(日)までの開催です。

今までご紹介した資料の他にも、多くの資料を展示しております。

皆様のご来館を心よりお待ちしております。