9月の展示替えを行いました

9月1日から中央ステージ、展示ケース、壁面展示スペースの展示を一部替えました。

9月の特集は、「明治・大正時代の広告と本」です。

主に、明治、大正時代に出版された雑誌に掲載されている本の広告と実物の本を一緒に展示しています。

出版された当時、どんな部分を強調して紹介したのか、という点に注目してご覧いただくと面白いと思います。

特集は、展示ケースと壁面展示スペースの一部です。

また、壁面展示スペースでは、「野田宇太郎と明治村」として、野田が理事として関わった

明治村の資料も一緒に御紹介しています。

今回の展示の見どころをこちらで少しだけお伝えします。

こちらは雑誌「赤い鳥」です。

大正8(1919)年8月のもので、

西條八十(さいじょうやそ)(1892〜1970)

の詩集『砂金』の広告部分です。

本の紹介文を見ると、

「作者西條八十氏の藝術がいかに絢爛華麗な幻想と

優雅な氣品とに包まれてゐるか」や

「その高貴な作品全部が悉く網羅されてゐます」

などと書かれ、作者がとても高く評価されていることが分かります。

また、金額も1円80銭と高額で、文章も子供向けではないことから、

これは「赤い鳥」を購入している親に向けた広告だと

考えられます。

(大正8年頃、蕎麦1杯が7銭でした)

詩集『砂金』(大正8(1919)年6月、尚文堂書店)の初版本です。

現在は、100年近くの年月を経て、ほとんど茶色に見えるのですが…

実は上の広告を見ると「コバルト色羊皮」と書かれおり、

出版された当時は青色であったことが分かりました。

青色の表紙に金色の箔押しが映えて、とても美しい本だったに

違いありません。

「アララギ」、大正3(1914)年10月発行に掲載されていた

高村光太郎の詩集『道程』(大正3年10月、抒情詩社)

の広告です。

面白いのは「直接注文先着五十部に限り著者の署名をこふべし」

と書かれている点です。

『砂金』の広告のように、作者自身や作品について書かれては

いませんし、小さくて見えにくいのですが、左の2行は

『旅愁』『御白遺稿』というそれぞれ他の作家の本の宣伝です。

実は『道程』は今でこそ評価も高く、高村光太郎の代表作ですが、

出版時は200部程度の自費出版でした。

全部数の4分の1にサインをするということですから、

少しでも売れるようにとの苦肉の策であったのでしょう。

「パンテオン」、昭和3(1928)年4月の広告です。

出版元の第一書房の創業者でもある

長谷川巳之吉(1893〜1973)

が紹介文を書いています。

詩集の評価ではなく、出版までの長谷川の努力と、

この本がいかに美しいか、ということが、ここで語られています。

「…金色燦爛たる本詩集となりて現はれぬ。

これ年來の宿志にして我が詩集の装釘美は終についに

確立せられたり。」

という文には、出来栄えに十分満足し、自信を持っている

長谷川の気持ちが伝わります。

こちらが、『萩原朔太郎詩集』(昭和3(1928)年3月、第一書房)です。

長谷川が自信を持っているだけあって、豪華でとても美しい作りです。

本そのものも厚く丈夫です(左のケースは展示していません)。

もちろん、裏表紙も背表紙にも同じようにびっしり模様があります。

さらに見ていただきたいのが、この部分です。

この本は、本の裁断面すべてに金が箔押しされている三方金という

やり方になっています。

なかでも、本の上部(天)には、ここにさらに蔦が交差したような

模様が箔押しされています。

長谷川は、書物の美にこだわり、在野精神、反アカデミズムの

姿勢において「第一書房文化」とその在り方を讃えられた

人物でもあります。

本の広告ではありませんが、「メイゾン鴻乃巣」の広告です。

雑誌「スバル」明治44(1911)年9月のものです。

「メイゾン鴻乃巣」は明治43年に東京日本橋にできたフランス風

料理を出すお店です。

この店には与謝野鉄幹、木下杢太郎、北原白秋、吉井勇などの

文化人が訪れ、「パンの会」の会場の一つでもありました。

「スバル」や「白樺」に、メイゾン鴻乃巣の広告がたびたび

掲載されているのもこのようなつながりからだと考えられます。

さて、こちらは壁面展示スペースの「野田宇太郎と明治村」で

展示している資料(部分)です。

明治村の機関誌「明治村通信」の第82号(昭和52(1977)年4月)です。

野田自身の文で「二人の徳川さん」というタイトルです。

野田の自筆の訂正が入っています。

(分かりやすいように赤い矢印をつけています)

当館では、この「明治村通信」の82号を10部所蔵しているのですが、

実はそのすべてに野田の字で訂正が入っています。

同人雑誌「連峰」の昭和54(1979)年5月の号に、野田は「間違ひだらけ」という文章を寄稿しており、

その中でこんなことを言っています。

「間違ひだらけと云つても他人のことではない、自分のことである。(中略)わたくしにはいつも誤字誤植誤記といふ

脅迫観念の亡霊がつきまとつて離れない。」

「単行本などで誤植や自分の誤記などが出ると、いはゆる命が縮まるやうな思ひを味合ふことになる。」

「自分の本に誤記や誤植が見つかつて、それが一つから二つにもなると、自分の本は間違ひだらけのやうな、

かなしい気持にもなるものである。」

この文を読むと、野田がどれだけ自分の書く文章に気を使っていたかが分かります。

「明治村通信」は、野田の本でもなく、わずか数ページの機関誌ですが、それでもこれだけ自分の文章に

責任を持っていた野田のこと、手元にあるすべての分に訂正を入れずにはいられなかったのでしょう。

野田のかつての編集者魂をこの訂正の文字に見た気がしました。

最後に、「赤い鳥」の広告からもう一つご紹介します。

こちらは大正9(1920)年9月のものです。

「赤い鳥」の裏表紙は、たいていライオン歯磨の広告で、

毎回デザインを変え、子供向けに工夫がされています。

この号では、クイズのようになっていました。

なんと言っているかお分かりになりますか。

正解は…「ボクはライオンはみがきがすきだ、わたしもすき」です。

「み」が「箕」、「す」きが「鋤」、で描かれているところに、農具が身近であった時代背景を感じます。

この裏表紙の見返し部分には「プラグ白粉」の広告があり、こちらは購入者である親向けであることが分かります。

「赤い鳥」は、子供が自分で読むだけでなく、母親などが買って子供に読み聞かせることも想定して作られたのでしょう。

また、中央展示スペースでは、『昏れゆくギリシア』(昭和51(1976)年9月 潮流社)より、

野田宇太郎直筆詩稿「秋蝶」を展示しています。

皆さまのご来館を心よりお待ちしております。