展示替を行いました 〜直木賞特集 第2弾〜
9月22日(火)から、常設展の内容が一部替わりました。 今回は好評につき、前回に引き続き、「直木賞特集 第2弾」として展示をしています。 前回は、野田宇太郎と交流のあった直木賞作家として、宮尾登美子と伊藤桂一の書簡などをご紹介しましたが、 今回は福岡県ゆかりの作家でもある、江崎誠致の書簡や葉書を展示しています。 |
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こちらは、昭和17(1942)年、小山書店で撮影された写真です。 左から、安西均(あんざいひとし)、野田宇太郎、 江崎誠致(えざきまさのり)です。 江崎と野田の年の差は10歳以上あるのですが、この写真を見ると、 江崎が野田の肩に手を掛けており、親しげな様子がうかがえます。 |
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江崎誠致(1922〜2001)は、福岡県久留米市出身の小説家で、 『ルソンの谷間』〔昭和32(1957)年3月、筑摩書房〕 で第37回直木賞を受賞しました。 江崎は昭和14(1939)年に、福岡県明善中学校(現在の明善高等学校)の卒業式を待たず上京し、図書館講習所に 一時籍を置きました。 江崎と野田がどこで知り合ったのかは、はっきりしないのですが、おそらく野田が久留米にいた頃(昭和5年〜昭和14年) ではないかと思われます。 野田は昭和15(1940)年5月に上京して小山書店に入社していたので、野田のすすめで、江崎は小山書店に入社して います。 そういったことを考えると、上の写真の江崎が野田を慕う様子も頷けるものがあります。 昭和18(1943)年、江崎は召集により久留米歩兵第48連隊に入り、第4航空軍に転属してフィリピンのルソン島に 出征しました。 戦後、小山書店に復帰しますが、その後、出版社を設立するも解散し、政治活動に専念するようになります。 しかし、昭和30(1955)年末、江崎は喀血し、自宅療養をしながら『ルソンの谷間』を書き上げました。 |
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この書簡は、昭和32(1957)年、1月14日消印のものです。 内容は、昨年肺の手術をしたこと、今は回復に向かっていることなど、 自分の健康状態について書かれており、さらに、自分の本が筑摩書房 から出版されることについての報告があります。 時期的に考えて、この本は『ルソンの谷間』を指していると思われます。 この手紙を書いた江崎自身も、手紙を受け取った野田も、この時、 『ルソンの谷間』が直木賞を受賞するとは、考えもしなかったのでは ないでしょうか。 |
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昭和32(1957)年5月6日付、『ルソンの谷間』の出版記念会の案内状です。 「江崎誠致君出版記念発起人」として、青柳瑞穂、臼井吉見、 野田宇太噤A火野葦平の名前があります。 この案内状には「各紙書評でも称賛を得た」と書かれているので、 出版後、評判が良かったことが、分かります。 |
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この葉書は、どちらも昭和32年のものですが、左が7月14日消印、 右が8月7日消印です。 7月14日のものは、野田の著書『関西文学散歩』を受け取ったことへの お礼と、新しい作品に取り掛かっているという近況が書かれています。 8月7日のものは「早く最小限の義務を果し、自由を獲得したいと考えて います」と書かれています。 |
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8月7日の葉書を見ると、直木賞受賞後忙しくなったのか、受賞の喜びよりも、どうやらわずらわしさの方が先に立った ような印象を受けます。 7月14日には、新しい作品に取り掛かっているとあるので、作品を書く時間が十分に取れないことへの不満の気持ちも あったのかもしれません。 |
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中央ステージでは、昭和29(1954)年9月3日発行の「立石公民館報」 切抜を展示しています。 とても字が小さいので、全文を新たに打ち直して拡大したものも 添えています。 「故郷への手紙」として、野田は、故郷松崎や両親への想いを 綴っています。 |
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今回の展示は10月18日(日)までを予定しています。 皆様のお越しを心よりお待ちしております |