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野田宇太郎文学資料館特別企画展「野田宇太郎―激動の時代を駆けぬけた編集者―」展示紹介

「野田宇太郎―激動の時代を駆けぬけた編集者―」展示紹介

現在開催中の野田宇太郎文学資料館特別企画展「野田宇太郎―激動の時代を駆けぬけた編集者―」の展示をご紹介します。
野田宇太郎文学資料館は今年度で開館30周年を迎えます。今回の企画展は、戦中・戦後の激動の時代に編集者として活動した野田宇太郎の功績をご紹介する展示です。

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展示室の様子

野田宇太郎は、詩人や文学散歩の創始者として知られていますが、編集者としての野田宇太郎の功績はあまり知られていません。それは、野田が職業編集者であった時期が約8年間と短かったこと、そしてその時期が昭和15(1940)年~昭和23(1948)年と、戦中・戦後の混乱期であったことが大きな理由であるといえます。
しかし、野田が編集者として果たした役割は文学界の中で大きく、野田自身の生涯においても、編集者時代に培った人脈や経験、文学への信念は、その後の野田の人生を形作る大きな核となりました。

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展示室(第一壁面)の様子

野田は、約8年の間に、小山(おやま)書店、第一書房、河出書房、東京出版、といくつもの出版社で編集者として働きました。第一壁面部分では、小山書店時代から、第一書房時代、河出書房時代と、昭和15年~19年頃の編集者としての活動をご紹介しています。
野田が編集者として経験を積み、作家との交友関係を広げていったのが約3年間の小山書店時代です。小山書店は、小さいながら、良い本を出版する出版社でしたが、編集上の意見の対立から、野田は小山書店を退社してしまいます。そして、憧れの出版社であった第一書房から声がかかり、雑誌「新文化」の編集担当となりますが、第一書房の廃業により、野田は約1年しか勤めることができませんでした。しかし、運よく大手の出版社、河出書房で働くことが決まります。野田の編集者人生は、とても目まぐるしく、野田にとってもまさに激動の時期でした。

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展示室(第二壁面)の様子

第二壁面では、河出書房時代から東京出版時代、昭和19年~22年頃を取り上げています。野田の人生において大きなターニングポイントとなる時期です。河出書房が空襲で焼け、それでも雑誌「文藝」を続けようとした野田の信念、生涯の師となる木下杢太郎との出会いなどをご紹介しています。さらに戦後すぐ、野田は河出書房を辞めたのち、東京出版で「藝林閒歩」という雑誌を立ち上げました。GHQによる検閲など刊行を続けることは困難な時代でしたが、それまで培った人脈と正統派の文学を守り抜くという信念のもと、「藝林閒歩」を出版し続けました。
第二壁面では、「野田宇太郎と作家たち」として、野田が見出した作家、「次郎物語」の作者である下村湖人の紹介もしています。

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展示室(第三壁面)の様子

第三壁面では、「野田宇太郎と作家たち」の続きとして、三島由紀夫、幸田露伴、幸田文を大きく取り上げています。三島由紀夫は、まだ東京大学の学生だった頃に、野田の元を訪れて野田に作品の批評を依頼していました。野田は、自身の編集雑誌「文藝」に、三島の作品を掲載し、これが三島の初めての商業誌掲載作品となりました。
晩年の文豪・幸田露伴、その娘の幸田文と、深い交流を持ちました。露伴を尊敬していた野田は「文藝」に作品を掲載し、「藝林閒歩」では幸田露伴の特集も組みました。幸田文には、露伴の特集号の際に露伴の看病記を書くようにすすめ、文が書いた「雑記」は、高く評価されます。これをきっかけに幸田文は、作家の道を歩みはじめることになりました。

その他、野田と交流のあった男性作家の中から、太宰治、谷崎潤一郎、中山省三郎、横光利一、女性作家の中から、森茉莉、小堀杏奴、萩原葉子、小林哥津、村松嘉津らを取り上げました。
最後に、東京出版を退社し、出版社に所属せず、一編集者として「藝林閒歩」を続けようとした野田の奔走、そして「藝林閒歩」を終刊し、職業編集者を辞め著述生活に入るまでの野田の活動をご紹介しています。

最後に展示室の写真を何点かご紹介します。(撮影: Aoki Ayano)

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今回は駆け足で、展示全体をご紹介しました。
次回からは、ぜひご覧いただきたい展示品についてお知らせします。

10月3日(火)から展示品を一部入れ替えました。10月21日(土)には、ギャラリートークも行いますので、ぜひお越しください。また、11月18日(土)には講演会も予定しています。
皆様のご来館を心よりお待ちしております。