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常設展の展示替をしました~新収蔵品紹介 後藤明生自筆原稿~2018年5月

テーマ展示 「新収蔵品公開 後藤明生自筆原稿」

2018年5月8日から、常設展の一部を展示替えしました。

今月のテーマ展示では、野田宇太郎文学資料館が昨年度入手した収蔵品をご紹介します。
福岡にゆかりの深い小説家で、野田宇太郎とも交流があった後藤明生(ごとう めいせい 1932~1999)の自筆原稿です。

後藤明生は昭和7(1932)年に朝鮮咸鏡南道永興郡永興邑(現在の朝鮮民主主義人民共和国)で生まれ、朝鮮で終戦を迎えました。中学生だった昭和21(1946)年、38度線を越境して、朝鮮から本籍地の福岡に引き揚げるという体験をしています。その後、旧制福岡県立朝倉中学校(現在の朝倉高校)から早稲田大学第二文学部露文学科を卒業し、出版社で働きながら創作を続けました。昭和42(1967)年、「人間の病気」が芥川賞候補となったのを機に、文筆生活に入り、「内向の世代」と評される作家のひとりになります。鋭い観察眼と独特のユーモラスな作風で知られ、『吉野大夫』で谷崎潤一郎賞、『首塚の上のアドバルーン』で芸術選奨文部大臣賞を受賞しています。

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                  後藤明生自筆原稿

後藤と親交のあった作家・村上友視の『夢の始末書』(1984年 角川書店)によると、後藤は、原稿執筆にB6の鉛筆を使っていました。消しゴムで消しやすくするためだったそうで、大量の消しゴムカス(・・)を払うため、専用の刷毛も常備していたそうです。確かに、この自筆原稿も濃い鉛筆で書かれています。

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                 野田宇太郎宛 後藤明生書簡

今回のテーマ展示では、後藤が野田に宛てた書簡や年賀状、野田が所蔵していた後藤の著書なども展示しています。昭和38(1963)年に後藤が野田に宛てた年賀状では、野田と同じ朝倉高校出身であることを書いています。これより前の書簡は見当たらないので、知り合って間もない頃のものかもしれません。当時の後藤は31歳の若い編集者でしたが、一方の野田は54歳で、文学散歩シリーズの執筆や明治村の常任理事として文化遺産の保存に奔走するなど、様々な活躍をしている頃でした。同じ高校出身ということで、年賀状をもらった野田は、後藤に親近感を覚えたことでしょう。

後藤は、野田宇太郎より20歳以上年下の作家ですが、二人とも旧制朝倉中学(現在の朝倉高校)から早稲田大学へ進み、出版社で働きながら執筆活動を続けたというところは、共通しています。また、後藤は学生時代の昭和30(1955)年、雑誌「文藝」の全国学生小說コンクールで入選しているのですが、この「文藝」を戦時中に編集していたのは野田宇太郎です。不思議なつながりを感じます。

「新収蔵品公開 後藤明生自筆原稿」は6月1日(金)まで公開しています。皆様のご来館をお待ちしています。