常設展の展示替をしました~【野田宇太郎と思い出の母校】~2026年5~6月
2026年5月7日に常設展の展示替を行いました。
野田宇太郎は、福岡県小郡市松崎(当時は三井郡立石村大字松崎)にて誕生し、立石尋常小学校(現・小郡市立立石小学校)、朝倉中学(現・福岡県立朝倉高等学校)を卒業し、早稲田高校(現・早稲田大学)へ進学しますが病気のため止む無く退学し、故郷松崎へと戻ります。その後、20代前半で久留米に生活の拠点を移し、東京の出版社への就職を機に上京、そのまま東京で過ごすこととなりました。
しかし、折に触れ両親や祖父母の眠る松崎へ墓参りに戻りのために帰省し、生涯ふるさと松崎を大切にしています。
今回は、野田宇太郎の母校に関する写真や記事、そして野田が作詞した筑後地域の校歌をご紹介・展示しております。
・ステージケース(資料館展示室正面)
展示している「くろつち」第44号(1964年)には、野田宇太郎が「ふるさとへの便り―立石小学校の生徒たちへ―」と題し、母校の後輩となる立石小学校在校生へ向けて寄稿しています。
寄稿文には、「ふるさとは福岡県三井郡立石村大字松崎九二一番地であると今でもすらすらと言えること」「松崎は小郡の中でも最も歴史のはっきりとした由緒ある昔の城下町であり宿場町であること」「立石小学校在学中に様々な先生に出会えたこと」「年に一度訪れるふるさとが一つの目的に向かって歩きつづける勇気を与えてくれること」などが書かれており、最後に「わたくしはいつも皆さんと一緒にいるのです。わたくしはいつでも松崎の野田宇太郎です。」と締めくくられており、母校の後輩たちへのエールを送っています。
学校誌「くろつち」第44号(1964年、三井郡立石小学校)
・のぞきケース(電照パネル裏)
電照パネル裏ののぞきケースでは、野田が作詞をした校歌の一覧や野田自筆の校歌原稿を展示しています。
昭和29(1954)年に小郡市立立石小学校・中学校、そして福岡県立朝倉高等学校の校歌を作詞し、亡くなる年の昭和59(1984)年に福岡県立小郡高等学校の校歌を手掛け、その数は14校になりました。基本的に野田は「校歌は筑後のみ」と語っていましたが、中には縁が深かった東京都武蔵野市立第六中学校、静岡県伊東市立北中学校の校歌を作詞しています。
野田の手掛けた校歌は、小郡市内では5校。他の筑後地区では、久留米に2校、大刀洗に2校、八女に1校。筑後ではありませんが、甘木市立秋月小学校(現・朝倉市立秋月小学校)の校歌も野田作詞です。
現在でも野田の作詞した校歌は歌い続けられています。

野田宇太郎が作詞をした校歌一覧(野田宇太郎文学資料館作成)
・壁面
壁面には、野田宇太郎が1965年9月24日に帰郷した際に母校である朝倉高校を訪ねた際の写真を飾っています。当時は、新校舎が完成したことを受け、明治から大正期に建てられた旧校舎の解体作業中でした。野田にとっては自身の青春時代の校舎が取り壊されている風景と真新しい校舎を記憶として残すためにシャッターを押したものと思います。同じ日の写真には、朝倉高校周辺の町並を撮っています。野田にとっては懐かしい景色だったのかもしれません。
壁面の真ん中には、福岡県立朝倉高校の『創立五十年史』と、その中に書かれていた校歌作成の経緯を紹介しています。
壁面の様子
テーマ展示【野田宇太郎と思い出の母校】は6月7日(月)までの展示となります。
【2026.05.10 T】